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三軒茶屋の闇の奥 [思い出]

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僕の母の実家が世田谷の経堂にあり、僕が生まれたのも同じ世田谷の下馬の病院だった。近くに三軒茶屋という街があり、物心がついたころ、母に連れられて数度行った覚えがある。
豪徳寺から世田谷線に乗り換えてその埃っぽい三軒茶屋に行った。ひょっとしたらボンネットバスでも行ったことがあるかも知れない。
買い物に行ったわけではない。ちょっとした買い物なら新宿に出れば簡単だったからだ。三軒茶屋は場末の繁華街で殺風景で埃っぽい街だった。
母は、新興宗教みたいなものに通っていたのである。
大きな通りから路地に入ると木造の大きな建物があり、道に面した入り口から急なまっすぐにのびた薄暗い階段がある。土足のままきしませながら上がると、妙な造りの玄関があり、線香くさい臭いがした。奥の扉を開けるとさらに暗い空間が広がっていた。
「静かに。しゃべっちゃだめよ 」と母は小声で言った。僕は5歳だった。大人しくて素直な子どもだった。
目が慣れると、この空間は20畳くらいの座敷で、男女が数人座っていた。正面には祭壇みたいなものがあり、細い灯明が二本ともっていた。その前には、背を向け、白装束の髪の長い女が祭壇に向かい何やらブツブツ言っていた。母と僕が座り、しばらくしたら、ブツブツ言っていた女は、棒のようなものを振った。祭壇に向かっていた男女は一斉に礼をいた。母も同じようにした。僕もしなくてはいけないと察知して首を垂れた。

女は向き直り、一番近くの黒い背広の太った中年の男に向かってしゃべり始めた。男も何やら話している。女は50がらみで盲人のようだった。二人が会話している間は他の男女は黙っていた。
そしてしばらくすると、女は男の頭をパンパンと平手でたたき、男は深く礼をしてから立ち上がり帰っていった。
次は中年の女だった。その人は話しているうちに声を挙げて泣き始めた。そして最後に盲目の女にパンパンと頭を叩かれ、丁寧にお辞儀をして部屋から出て行った。帰る時に前の男もこの女も、封筒のようなものを盲目の女に渡していた。
同じことが、数人続いたようだったが、僕は寝てしまっていた。順番が来たのか僕は母に起こされた。

盲目の女の前に座ると母は話し始めた。母は水商売を始めたいのでその相談だったが、ほとんど父の悪口だった。盲目の女は最初は黙って聴いていた。そしてぼそぼそと話し始めた。良くは覚えてはいないが、タンスの何段目に何があるとか東へ行け北へ行け、祖母の戦争で死んだ弟が怒ってる。そんな話だった。母は神妙な顔をして首肯いていた。僕は薄暗い中に、脇の壁に般若と増女の能面が掛かっているのを見つけた。

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親父とホンダN360の思い出 [思い出]

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30年ほど前に父の思い出の原稿を僕の親友の杉山尚次氏の手を経て「別冊宝島」に掲載したことがあります。

僕には未だ家族はいないけれど、ここまで男手一つで育ててくれた父に感謝の気持ちをこめてここに思い出のエッセイを転載いたします。
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「父とホンダN360の思い出」
 
いやはや親父はタフだった。
もう50年以上も前のころ、母親がいなくて父子家庭に育った僕は親父と車でドライブをするのが大好きだった。親父はテレビ局の報道カメラマン。家で休んでいてもデスクから電話が有ればすぐ現場に重い16ミリカメラを持って出かけなければならなかった。
親父の足はエヌサンと呼ばれたホンダN360だった。このエヌサンは親父の知人からゆずってもらったもので元は真っ赤だったボディを白に塗り直し横には青いストライプ走らせていた。親父はそれまでスバル360に乗っていた。スバルのスッポンスポポンというヒステリックな2サイクル独特のエンジン音とは違ってブルルンブルルンというエヌサンの4サイクル2気筒の低音と小さいとはいえスポーティなボディは何か大人の感覚だった。
「30馬力もあるんだぞ」
確かにエヌサンは速かった。もともと軽い車体に親父の50キロそこそこの小さな体を乗せてもスバル360の五割増しの馬力は有り余るパワーを感じた。

親父とエヌサンはブルルンブルルンと4サイクルの雄叫びをあげながら、雨の日も風の日も現場に颯爽と出かけていった。親父は小さい息子をおいて行くのが心苦しかったこともあったのだろう、時には夜中に僕をエヌサンに乗せ現場へ取材に出かけたこともあった。眠くても親父とエヌサンで走ることはこの上もなく
楽しかった。

そして夏休み。毎年、親父は長い休暇を取ってエヌサンとともに日本中放浪の旅に連れていってくれた。行き当たりばったりの当てのない旅。親父と二人だけの気ままな旅。宿が無くてもエヌサンがその代わりになってくれた。
東海道を下り飛騨を越えて若狭湾に。新潟を通って能登半島からへ金沢へブルルンブルルン。
小さな車体をふるわせ風を切り走った。
高速道路ではのほほんと走る普通車を後目にエヌサンの小さいボディはその間をやんちゃ坊主のように走り抜けていった。
山道でもエフエフの威力を発揮して曲がりくねった道を器用に縫うようにして走った。

本当にエヌサンはタフだった。しかしそれ以上に親父はタフだった。やせてはいたが重いカメラで鍛えた腕でハンドルを握り、素足にサンダルでアクセルを踏み続けた。助手席に乗る僕の左腕は真っ赤に焼け、暑くて窓をいっぱいに開けると快い風が僕の髪を大きくなびかせた。当時は車にエアコンなぞついていないのが普通だったのだ。
「暑いなー次のドライブインでアイスコーヒー飲もうな」
冷房の利いたドライブインで飲むアイスコーヒーは本当においしかった。
 
一番思い出深いのが中学校最初の夏休みの旅。
本州の北の果てを目指して何度めかの旅にでた。エヌサンはもう家族の一員だ。もうすでに何年も走っていたがエンジンはバリバリ、絶好調だ。当時は東北縦貫なんて無い。国道4号線をひたすら北上した。途中、平泉、盛岡に泊まり、青森を過ぎ、3日目の夕暮れいよいよ津軽半島にさしかかった。もうすでに800キロも走っている。 

この本州の北の果ては妙に寂しかった。エヌサンも心なしかエンジンの音をひそめて走っていた。
そして日没前、僕たちは十三湖のほとりに着いた。僕の目の前には初めて見る津軽の荒涼とした風景が広がっていた。昔は栄えた大きな湊であったというこの湖は波も立たずひっそりと静まり返っていた。

どんよりとした空の下には十三の集落がガッチョと呼ばれる卒塔婆みたいな木の塀で囲まれていた。
「ここには十五年も前に白鳥を撮りに来たことがある。その時に泊まった宿があるはずだ」
親父は懐かしそうに言った。
十三の集落を縫う道を戻るとその宿は有った。加納旅館という小さなあばら屋みたいな宿であった。
客は僕たち父子二人だけ。お茶を運んできた女将さんに
「十五年ほど前の冬に来たことがあります。あなたはまだ高校生位で、その時の女将さんが津軽三味線で唄ってくれた。あなたは東京に行ってみたいと言っていました」
と親父が尋ねると女将さんはちょっとはにかむように微笑んで
「そんなことがあったような気もする」
と答えた。宿帳を繰ってみると一月から百人も泊まっていない。
「こんな寂しいところに来る人もいないのだろうな」
と親父はぽつんと言った。風呂に入って遅い夕食を取るともうすることがない。

普通だったら大人は酒でも飲むのだろうけど親父は下戸でビールも一口でまいってしまう。結局早寝をしたが空を轟々と風が鳴っていて恐くてなかなか寝付かれなかった。
次の朝、僕たちは十三湖を後にした。当時は津軽半島の日本海側からは竜飛崎に行くことはできなかったのできびすを返して日本海の海岸線を下っていった。

海はどんよりとしていて海岸の砂浜には流木が死人のように横たわっていた。上を見上げると岩木山が堂々とそびえていた。ガリンスタンドは地元のあんちゃんたちが東京から来た車だというので物珍しげによって来た。
「やっぱりホンダはエンジンがいいべ。エフワンやってるもんなあ」
「そうだねえ力があるよね」
「前輪駆動だから山道も大丈夫だあね」
「まっ腕も物言うけどね」
親父も機嫌良く答えていた。

秋田市に着き、今度は本州を横断して太平洋側に出ようということになった。
親父はエヌサンに鞭を打ち夜を徹して奥羽山脈を越えた。僕は後ろの座席で寝ていて起きたときにはもう車は盛岡を抜け遠野辺りを走っていた。
親父もエヌサンもまだまだ元気だった。太平洋岸でて宮古に一泊し浄土が浜で泳いだ。

いよいよ路銀も尽きてきたので、太平洋の海岸線を南下し家路につくことにした。
また親父は徹夜で走るつもりだった。
田舎の夜道は電灯など無く真っ暗だった。釜石を過ぎた辺り、岬の峠を越えて坂道を下り左に曲がろうとしたとき、エヌサンは大きく右に傾き畑に転落してしまった。
車体は横倒しになり畑にめり込んだ。僕はエヌサンの天井に頭を打ち親父は僕の下になってもがいている。その時外から大丈夫ですかとドアを潜水艦のハッチのように空けて手を差し出してくれた人がいた。後ろから来た地元の人であった。
僕と親父は助け出された。原因はエヌサンが前輪駆動だからと侮って無理なカーブを切りもろい路肩を崩して転倒したのだった。親父もさすがに疲れていたのだろう。
幸い二人とも擦り傷だけですんだ。地元の人は横になったエヌサンの前で途方に暮れおろおろしている僕たち父子を後目に通りかかったトラックを止め、エヌサンを引っぱり出してくれた。
かわいそうにエヌサンは泥だらけで右目をつぶしていた。
地元の人は僕たち父子を心配してくれ、家に泊まって明日考えようと言ってくれた。しかし親父がキィを回すとエヌサンはなんとブルルンブルルンと生き返ったではないか。動かしてみると致命傷は負っていないようであった。
親父は助けてくれた地元の人とトラックの運転手にお礼を言って再び走り出した。

片目のエヌサンは車体をキリキリと歯を食いしばるようにに軋ませながら走ってくれた。
そして僕たちは次の日の昼過ぎには何事もなかったように東京に帰ったのであった。
全行程、1500キロだったと記憶している。

それからまた二十数年。親父はとっくに現役を退き、田舎で老後を送っている。
車は中型車になってしまった。ゆったりとした室内に快適なエアコン。静かなエンジンに軽いパワステのハンドル。別にそれにいちゃもんを付けるつもりは毛頭無い。
ただパワステもエアコンも無いエヌサンで汗まみれになりながら走ったあの時代は親父も日本もパワフルで元気だったんだなあと小さな車体を懐かある日、そんな思い出を辿ろうと津軽まで行ってみようと思った。僕は免許を持っていないので友人に車で津軽まで連れていってくれるように頼んだ。
「ふざけちゃいけない」
と簡単に断られた。
「親父は360ccの軽自動車で連れていってくれた」
と言い返したら
「運転する身になってみろ。それは父子だからできたのだ」
と言われた。
友人の言うことは正しいと思った。
 
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※文中25年前とありますが現在は40年以上前となります。
父は健在です。来年90歳になりますが群馬県渋川市で義母と柴犬と元気に暮らしております。
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断片的な思い出 一 「一歳半の曼荼羅世界」 [思い出]

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母が僕を背中に背負って台所脇にある、ガス風呂に火をつけている。

 あのガス風呂特有の匂いを嗅ぐと必ず思い出す光景だ。

 ガス風呂の匂いは都市ガスやLPガスの匂いとは違う。あのようなとってつけたような匂いではなく、ものが燃焼した乾いたような感じの匂いである。

 この光景は一番古い思い出である。おそらく三つになるかならないかの頃だろう。

 あの頃は東村山の萩山という新興住宅地の一軒家に住んでいた。

当時としてはモダンな平屋であった。和室の六畳二部屋に洋室の十畳。四畳半も付いていた。

 僕の小さなベッドと両親のダブルベッドは洋室にあった。

それに台所と風呂とトイレ。広い庭には砂場があり長十郎と二十世紀の梨の木が庭のそれぞれの端に植わっていた。

 確か小さな台所は四畳半にもあり、つまり四畳半と六畳を間借りをさせることができるような構造になっていた。

庭と玄関を結ぶ隣のアパートととの路地には井戸のポンプがあってたまに大げさなモータ音をうならせていた。

そして、井戸の近くにアパートの人たちが使う洗濯場があった。

 この隣のアパートは実は祖母のものであり、うちはその管理人も任されていたわけである。

 家を出て右に行くとすぐ線路があり、向こう側は広い小平霊園の敷地だった。

 アパートと反対の隣は200坪ほどの空き地であった。ここは長い間、近所の子供たちとの遊び場であった。

 そんな中で僕の一番最初の曼荼羅が形成したのである。


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うなぎと梅酒 [思い出]

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私の祖母は明治35年生まれてしたが、私が中学校3年の夏に好物のうな重を食べた後にうっかり梅酒を飲み、悶え苦しんで亡くなりました。うっかり梅酒を飲んだというのは、昔からうなぎと梅原食べ合わせが悪いと云われていたのですが、それを忘れていたのです。普段は食前に健康のためと言って梅酒を杯に一杯飲んでいたのですが、その日はうなぎだから飲むのを控えていたのです。ところが、うなぎを食べた後、今度は梅酒を飲むのを忘れたと思い、冷蔵庫から梅酒を取り出したのです。おそらく物忘れがひどく、梅酒を飲むのを忘れていたことを思い出した途端に今度はうなぎを食べたことを忘れたのです。それを見ていたいかず後家で祖母のめんどうを見ていた伯母が、「お母様、うなぎに梅酒はまずいでしょう 」とたしなめた瞬間に祖母は苦しみ出し血を吐いて病院にかつぎこまれましたが、そのまま亡くなりました。
祖母は若い頃、田舎町で芸者をやっていたのですが、当時実業家であった祖父に見初められました。そして周囲の反対を押し切って結婚したのです。
つまり私は芸者の孫という出生の秘密があるのです。


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