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親父とホンダN360の思い出 [思い出]

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30年ほど前に父の思い出の原稿を僕の親友の杉山尚次氏の手を経て「別冊宝島」に掲載したことがあります。

僕には未だ家族はいないけれど、ここまで男手一つで育ててくれた父に感謝の気持ちをこめてここに思い出のエッセイを転載いたします。
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「父とホンダN360の思い出」
 
いやはや親父はタフだった。
もう50年以上も前のころ、母親がいなくて父子家庭に育った僕は親父と車でドライブをするのが大好きだった。親父はテレビ局の報道カメラマン。家で休んでいてもデスクから電話が有ればすぐ現場に重い16ミリカメラを持って出かけなければならなかった。
親父の足はエヌサンと呼ばれたホンダN360だった。このエヌサンは親父の知人からゆずってもらったもので元は真っ赤だったボディを白に塗り直し横には青いストライプ走らせていた。親父はそれまでスバル360に乗っていた。スバルのスッポンスポポンというヒステリックな2サイクル独特のエンジン音とは違ってブルルンブルルンというエヌサンの4サイクル2気筒の低音と小さいとはいえスポーティなボディは何か大人の感覚だった。
「30馬力もあるんだぞ」
確かにエヌサンは速かった。もともと軽い車体に親父の50キロそこそこの小さな体を乗せてもスバル360の五割増しの馬力は有り余るパワーを感じた。

親父とエヌサンはブルルンブルルンと4サイクルの雄叫びをあげながら、雨の日も風の日も現場に颯爽と出かけていった。親父は小さい息子をおいて行くのが心苦しかったこともあったのだろう、時には夜中に僕をエヌサンに乗せ現場へ取材に出かけたこともあった。眠くても親父とエヌサンで走ることはこの上もなく
楽しかった。

そして夏休み。毎年、親父は長い休暇を取ってエヌサンとともに日本中放浪の旅に連れていってくれた。行き当たりばったりの当てのない旅。親父と二人だけの気ままな旅。宿が無くてもエヌサンがその代わりになってくれた。
東海道を下り飛騨を越えて若狭湾に。新潟を通って能登半島からへ金沢へブルルンブルルン。
小さな車体をふるわせ風を切り走った。
高速道路ではのほほんと走る普通車を後目にエヌサンの小さいボディはその間をやんちゃ坊主のように走り抜けていった。
山道でもエフエフの威力を発揮して曲がりくねった道を器用に縫うようにして走った。

本当にエヌサンはタフだった。しかしそれ以上に親父はタフだった。やせてはいたが重いカメラで鍛えた腕でハンドルを握り、素足にサンダルでアクセルを踏み続けた。助手席に乗る僕の左腕は真っ赤に焼け、暑くて窓をいっぱいに開けると快い風が僕の髪を大きくなびかせた。当時は車にエアコンなぞついていないのが普通だったのだ。
「暑いなー次のドライブインでアイスコーヒー飲もうな」
冷房の利いたドライブインで飲むアイスコーヒーは本当においしかった。
 
一番思い出深いのが中学校最初の夏休みの旅。
本州の北の果てを目指して何度めかの旅にでた。エヌサンはもう家族の一員だ。もうすでに何年も走っていたがエンジンはバリバリ、絶好調だ。当時は東北縦貫なんて無い。国道4号線をひたすら北上した。途中、平泉、盛岡に泊まり、青森を過ぎ、3日目の夕暮れいよいよ津軽半島にさしかかった。もうすでに800キロも走っている。 

この本州の北の果ては妙に寂しかった。エヌサンも心なしかエンジンの音をひそめて走っていた。
そして日没前、僕たちは十三湖のほとりに着いた。僕の目の前には初めて見る津軽の荒涼とした風景が広がっていた。昔は栄えた大きな湊であったというこの湖は波も立たずひっそりと静まり返っていた。

どんよりとした空の下には十三の集落がガッチョと呼ばれる卒塔婆みたいな木の塀で囲まれていた。
「ここには十五年も前に白鳥を撮りに来たことがある。その時に泊まった宿があるはずだ」
親父は懐かしそうに言った。
十三の集落を縫う道を戻るとその宿は有った。加納旅館という小さなあばら屋みたいな宿であった。
客は僕たち父子二人だけ。お茶を運んできた女将さんに
「十五年ほど前の冬に来たことがあります。あなたはまだ高校生位で、その時の女将さんが津軽三味線で唄ってくれた。あなたは東京に行ってみたいと言っていました」
と親父が尋ねると女将さんはちょっとはにかむように微笑んで
「そんなことがあったような気もする」
と答えた。宿帳を繰ってみると一月から百人も泊まっていない。
「こんな寂しいところに来る人もいないのだろうな」
と親父はぽつんと言った。風呂に入って遅い夕食を取るともうすることがない。

普通だったら大人は酒でも飲むのだろうけど親父は下戸でビールも一口でまいってしまう。結局早寝をしたが空を轟々と風が鳴っていて恐くてなかなか寝付かれなかった。
次の朝、僕たちは十三湖を後にした。当時は津軽半島の日本海側からは竜飛崎に行くことはできなかったのできびすを返して日本海の海岸線を下っていった。

海はどんよりとしていて海岸の砂浜には流木が死人のように横たわっていた。上を見上げると岩木山が堂々とそびえていた。ガリンスタンドは地元のあんちゃんたちが東京から来た車だというので物珍しげによって来た。
「やっぱりホンダはエンジンがいいべ。エフワンやってるもんなあ」
「そうだねえ力があるよね」
「前輪駆動だから山道も大丈夫だあね」
「まっ腕も物言うけどね」
親父も機嫌良く答えていた。

秋田市に着き、今度は本州を横断して太平洋側に出ようということになった。
親父はエヌサンに鞭を打ち夜を徹して奥羽山脈を越えた。僕は後ろの座席で寝ていて起きたときにはもう車は盛岡を抜け遠野辺りを走っていた。
親父もエヌサンもまだまだ元気だった。太平洋岸でて宮古に一泊し浄土が浜で泳いだ。

いよいよ路銀も尽きてきたので、太平洋の海岸線を南下し家路につくことにした。
また親父は徹夜で走るつもりだった。
田舎の夜道は電灯など無く真っ暗だった。釜石を過ぎた辺り、岬の峠を越えて坂道を下り左に曲がろうとしたとき、エヌサンは大きく右に傾き畑に転落してしまった。
車体は横倒しになり畑にめり込んだ。僕はエヌサンの天井に頭を打ち親父は僕の下になってもがいている。その時外から大丈夫ですかとドアを潜水艦のハッチのように空けて手を差し出してくれた人がいた。後ろから来た地元の人であった。
僕と親父は助け出された。原因はエヌサンが前輪駆動だからと侮って無理なカーブを切りもろい路肩を崩して転倒したのだった。親父もさすがに疲れていたのだろう。
幸い二人とも擦り傷だけですんだ。地元の人は横になったエヌサンの前で途方に暮れおろおろしている僕たち父子を後目に通りかかったトラックを止め、エヌサンを引っぱり出してくれた。
かわいそうにエヌサンは泥だらけで右目をつぶしていた。
地元の人は僕たち父子を心配してくれ、家に泊まって明日考えようと言ってくれた。しかし親父がキィを回すとエヌサンはなんとブルルンブルルンと生き返ったではないか。動かしてみると致命傷は負っていないようであった。
親父は助けてくれた地元の人とトラックの運転手にお礼を言って再び走り出した。

片目のエヌサンは車体をキリキリと歯を食いしばるようにに軋ませながら走ってくれた。
そして僕たちは次の日の昼過ぎには何事もなかったように東京に帰ったのであった。
全行程、1500キロだったと記憶している。

それからまた二十数年。親父はとっくに現役を退き、田舎で老後を送っている。
車は中型車になってしまった。ゆったりとした室内に快適なエアコン。静かなエンジンに軽いパワステのハンドル。別にそれにいちゃもんを付けるつもりは毛頭無い。
ただパワステもエアコンも無いエヌサンで汗まみれになりながら走ったあの時代は親父も日本もパワフルで元気だったんだなあと小さな車体を懐かある日、そんな思い出を辿ろうと津軽まで行ってみようと思った。僕は免許を持っていないので友人に車で津軽まで連れていってくれるように頼んだ。
「ふざけちゃいけない」
と簡単に断られた。
「親父は360ccの軽自動車で連れていってくれた」
と言い返したら
「運転する身になってみろ。それは父子だからできたのだ」
と言われた。
友人の言うことは正しいと思った。
 
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※文中25年前とありますが現在は40年以上前となります。
父は健在です。来年90歳になりますが群馬県渋川市で義母と柴犬と元気に暮らしております。
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断片的な思い出 一 「一歳半の曼荼羅世界」 [思い出]

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母が僕を背中に背負って台所脇にある、ガス風呂に火をつけている。

 あのガス風呂特有の匂いを嗅ぐと必ず思い出す光景だ。

 ガス風呂の匂いは都市ガスやLPガスの匂いとは違う。あのようなとってつけたような匂いではなく、ものが燃焼した乾いたような感じの匂いである。

 この光景は一番古い思い出である。おそらく三つになるかならないかの頃だろう。

 あの頃は東村山の萩山という新興住宅地の一軒家に住んでいた。

当時としてはモダンな平屋であった。和室の六畳二部屋に洋室の十畳。四畳半も付いていた。

 僕の小さなベッドと両親のダブルベッドは洋室にあった。

それに台所と風呂とトイレ。広い庭には砂場があり長十郎と二十世紀の梨の木が庭のそれぞれの端に植わっていた。

 確か小さな台所は四畳半にもあり、つまり四畳半と六畳を間借りをさせることができるような構造になっていた。

庭と玄関を結ぶ隣のアパートととの路地には井戸のポンプがあってたまに大げさなモータ音をうならせていた。

そして、井戸の近くにアパートの人たちが使う洗濯場があった。

 この隣のアパートは実は祖母のものであり、うちはその管理人も任されていたわけである。

 家を出て右に行くとすぐ線路があり、向こう側は広い小平霊園の敷地だった。

 アパートと反対の隣は200坪ほどの空き地であった。ここは長い間、近所の子供たちとの遊び場であった。

 そんな中で僕の一番最初の曼荼羅が形成したのである。


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小児病棟跡 [心霊]

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 今は東京郊外の住宅地となっている西武線のk市は昔から大きな病院が多いところで知られたところだ。結核療養所や隣のH市にはハンセン氏病のZ園(今は国の研究施設となっている)をはじめとする大病院が軒を連ねている。昔は結核療養所は相当の敷地があったようだが、今はいくつかの病院に分けられている。そのK市の病院街にある小児病院の敷地の奥に木造の廃屋の病棟があって、解体予算がないのかそのままになっている。



 ある時、ある友人が先輩からその病院の診療室のベッドに浮浪者のものと思われる死体が放置されたままになっているという話を聞いた。好奇心旺盛な彼は一人で夜中に病院の敷地に進入してその病棟を探した。廃屋となった病棟は新しい建物の奥の森の中にあった。ちょうど昔の学校の二階建ての木造校舎のようだった。病棟は二棟並んで建っていて渡り廊下で結ばれていた。入り口は開いたままになっていたので難なく中に進入できた。やがて長い廊下の右手に診療室らしき部屋を見つけた。



 彼はその部屋の入り口から懐中電灯で中を照らした。部屋の中は壊れた医療器具や薬品の瓶などが散乱していた。そして机や棚がひっくり返っていて大きな地震の直後のような状態になっていた。その中に診療台みたいなものが置かれていて布団がのっかっている。一瞬、緊張したがどうせ嘘だろうとたかをくくっていたのであきらめて帰ることにした。



 しかしどうせ来たのだから何か証拠を先輩に見せようと部屋の中に入った。何かもって帰ろうと物色していて先ほどの診療台に近づいた。なんか異臭がするなと光を再び診療台に当てたとき布団と見えたものの正体が理解できた。



 それは毛布にくるまったミイラ化した死体だったのだ。落ちくぼんだ眼窩は彼を睨んでいた。



 彼は足下も危ないの懐中電灯を放り出してに闇の中を飛んで逃げたという。二.三日は食べ物も喉に通らず、夢にうなされ続けた。そしてこの話は他に先輩以外にもらして無いということだった。彼の話を聞いた私たちは早速その夜中に病院探検を決行することにした。その喫茶店が終わる午前12時を待ってマスターとママと僕たち学生5人で車でk市に向かった。k市はこの喫茶店から車で10分とかからぬところにある。病院街は鬱蒼としていて街路灯があるとはいえ車でも一人で通るのは勇気がいる。目的の小児病院の門の外に車をつけた。病院は新しい建物で不気味さは全然無かった。だが廃屋になった病棟は門を入って左側を行き森を抜けるとあるはずだった。一行は息を殺して病院の敷地の中を進んだ。

 森の半ばまで来たときだ。僕たちの進む方向からちりーんと鈴の音が聞こえた。

 「おい今の聞いたよな」

 全員は黙ってうなずいた。しかしもうあとには引けない。持って来た懐中電灯をつけて再び進んだ。廃屋となった病棟は二棟並んで建っていた。話の通り昔あった木造の学校のような建物だ。建物の間には渡り廊下があり、雑草が占拠していた。懐中電灯で辺りを探ると昇降口は封印されておらず、真っ黒な口を開けていた。



 「ここから入ってみようか」

 K高校の生徒からもらった略図を頼りにその死体のある部屋の一番近い入り口から建物に入っていった。木造の床はぎしっぎしっと軋み、子供の上履きが散乱している。廊下の壁には子どもたちがクレヨンで描いた絵が朽ち果てんばかりになって揺れていた。「ここだ」 略図通りであればこの部屋の中にミイラ化した死体があるはずだ。一行に緊張が走った。「おれはここにいる」と尻尾を巻いた奴もいた。マスターは懐中電灯で部屋を照らした。中は話の通り器具やら瓶が散乱している。問題の診療台に光を当てるとみんな眼を覆った。

 「なんだ何にもないじゃないか」

 一通り部屋を見回したマスターは気が抜けたように言った。その途端、全員緊張が解けて恐怖感が無くなっていた。

 「きっとかつがれたんだよ」

 「いや発見されて処理されたんだよ」

 怖いもの見たさで来たものの、本当にあったらどうしようとみんな思っていたので正直ほっとしたのだった。しかし本当の恐怖はまだ息を潜めていた。



 証拠写真のためにポラロイドを撮っておこうと例の部屋とか廊下とかをカメラに収めた。そしてまた入り口に戻り建物の外観を撮っていた時だ。

 「何だろう。あの建物は」

 一人が指さす方を見ると病棟の脇の奥に確かに建物がある。来たときには気がつかなかったのだ。

 「行ってみよう」

 建物は不思議な格好をしていた。木造では無く煉瓦作りで入り口らしきところは妙な装飾がされていた。

 「これは焼き場だぜ」

 空を仰ぐと黒々とした煙突が延びていた。僕はあることを思い出した。西武池袋線のk駅とA 駅の間に鬱蒼とした森から長い煙突が延びているのが電車の窓から見える。子どもの頃から何か不気味な感じがしていたのだが噂によるとあれは結核療養所で亡くなった患者を焼く焼き場だと云うことだった。今は使われなくなったのだが、昔は菌を外に出さないと云う理由で病院内で処理されたのだ。その煙突が目の前にあるのだった。僕たち一行は再び悪寒に襲われた。



 その時、森の中でちりーんと鈴の音がまた鳴った。

 「もう帰ろう」

 だれも反対はしなかった。再び木造の病棟の前を通り車を目指した。

 「何だろうあの音は」

 だれかが言って、耳を澄ますと病棟の廃屋の中をぎゅっぎゅっぎゅっと床を軋ませて何者かが歩いてくる。みんな息をひそめた。音はだんだん手前に近づいてくる。ぎゅっぎゅっぎゅっ、ちりーん・・・足音ともに鈴の音がしたと思うとどしゃーんばりばり!!腐った扉でも思いきりけっ飛ばしたような音が轟いた。それを合図に僕たちはその場から走り出した。そして一目さんに車に逃げ帰ったのだ。

 「なんだったんだよあれは」

 「分からないけどだれかがやっぱりいたんじゃないか?」

 「早く帰ろう」

 しかしマスターとママがいなかった。二人をおいて帰るわけには行かないので車の中で待っていると間もなく二人が来た。 二人の話によると、心臓も飛び出んばかりの音を聞いてママは腰を抜かしたのだがマスターは冷静だった。せいぜい浮浪者がまたいるんだろうぐらいに思っていた。しかし音がした方向を窺っているとその辺りの窓がぼうっと明るくなり、しばらくすると破れた窓から火の玉が空に向かって出ていったと云うことだった。これを見た二人はお互い口も聞かず車に戻ってきたのだった。



 この病棟の廃屋と焼き場と思わしき建物は取り壊されきれいな公園になっている
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霊界喫茶店 [心霊]

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私はこの話をあるWEBの怪談サイトに投稿したところ番組「アンビリバボー」のスタッフから、ぜひ再現ビデオにしたいと要望があった。私はもう店もないが関係者は健在なので許可を取り、承諾をした。放送された番組は少し変わっていたが、下記にあるのはオリジナルの話である。


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東京の郊外の大きな団地の商店街にその喫茶店はありました。
 マスターとママが二人でやっていて近くに住む大学生や高校生でいつも賑わっていました。
 常連たちは昼間よりも夜の方が活動的で、マスターもママも取り留めもない話が好きでいつも夜中まで営業をしていました。当然、夜中にもなると怪談に花が咲き、夜遊びをして時には幽霊ツアーなども行われていました。
 店の壁には常連のカメラマンの作品で東北の自然と農村の風景を撮った数枚の写真を飾っていました。その中に井戸端で野菜を洗う農家のおばあさんの写真がありました。おばあさんの笑顔がとても良く撮れていたことを覚えています。
 ある日、そのカメラマンが店に来てこのおばあさん亡くなったんだよねとぽつんと言って帰りました。
その晩のことです。僕たち常連たちが三四人いつものように今日の夜遊びの相談をしていました。
だれかが「この写真のおばあさん死んだらしいぜ」と言いました。まただれかが「じゃあ今日はお弔いだ」と言って壁からおばあさんの写真をはずし黒いリボンで葬式の写真のようにしてしまいました。そしてカウンターに飾り残っていた常連で一人ずつお焼香の真似を始めたのです。そして最後の僕の番の時です。天井にかけてある大きなスピーカーから突然大音響で読経が流れて来たのです。もう店仕舞いをしていたのでステレオの電気は切ってあったはずなのに悪戯好きのマスターが仕組んだんだと思い、みな顔を見合わせて笑っていました。スピーカーの声は何十人ものお坊さんが読経をしているような荘厳な感じがしました。しかしマスターだけがきょとんとしています。「ステレオの電源だれかいれた?」アルバイトの男の子が見ると電源は入っていませんでした。読経はそれから十秒くらい続いて切れました。僕たちは背筋が凍り付きました。考えてみれば突然思いついた悪戯なのですからそんな仕込みをする余裕はありません。それにステレオの電源が入っていなかったのは全員見ていたのです。
 一体あれはなんだったのでしょう。
 僕が直接体験したその喫茶店でのお話はもう一つあります。
 夏休みのことでした。夕方、僕はその喫茶店から帰ろうとしたら夕立が降ってきたのでもう少しまとうと思いカウンターの一番出口に近い席に座りなおしました。店のピンク電話が鳴りました。マスターがいなくてママが忙しそうだったので窓際にある電話にでました。電話からは中年の男の人の声で「手塚さんのお宅ですか?」と言いました。「僕が手塚ですけれどもここは僕の家ではありませんよ」男の声は少し戸惑ったようですが「でもあなたが手塚さんなのですね」「そうですけれど」「私はK(大学のクラブの後輩)の叔父です。実はKが昨日から行方不明になっていたところ、今日溺死体で見つかりました」「え」「甥は宮崎に帰省していたのです。どなたか大学の知り合いに知らせようと思っていたのですが甥はずぼらで手帳に電話帳など書いていなくて困っていたのですがあなたの電話番号がメモ覧に書いてあったのでもしやと思い電話をしました。あなたは甥の大学での知り合いですよね」「クラブの先輩です」「そうですか。良かった。お手数ですがKを知っている人たちに知らせてくれませんか」「大学には知らせたのですか?」「ええでも大学は掲示板に訃報を出すだけでそこまではしないそうです」
 Kの叔父さんの声は冷静でむしろ事務的な感じがしましたが、とにかく僕はえらいことだと思い冷や汗をびっしょりとかいていました。そして僕は知っている限りの知人に連絡することを約束し通夜と告別式の日時を聞きとうりいっぺんのお悔やみを言い電話を切りました。
 偶然とは言え、たまたま夕立で雨宿りしていた喫茶に電話が掛かり偶然にも本人がでる。しかも偶然に見つかったメモを追ってかけてきた電話だった。確かに何人かにこの喫茶店の電話番号を教えたことがある。しかしKとは3学年離れておりそんなに話したことも無かった。本当に不思議なことだとママと話していたときです。店のステレオは音楽を鳴らしていましたが突然音楽は止み、人のすすり泣く声がしてきたのです。泣き声は男女入り交じっていました。そしてそれが数十秒も続くとまた音楽に変わりました。前の読経の件があっただけにまた店にいた人たちと顔を見合わせてしまいました。ただこの時は恐ろしいという感じでは無く本当に悲しい気持ちで一杯だったことを覚えています。
 この喫茶店のステレオは霊界につながっていたのでしょうか。


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うなぎと梅酒 [思い出]

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私の祖母は明治35年生まれてしたが、私が中学校3年の夏に好物のうな重を食べた後にうっかり梅酒を飲み、悶え苦しんで亡くなりました。うっかり梅酒を飲んだというのは、昔からうなぎと梅原食べ合わせが悪いと云われていたのですが、それを忘れていたのです。普段は食前に健康のためと言って梅酒を杯に一杯飲んでいたのですが、その日はうなぎだから飲むのを控えていたのです。ところが、うなぎを食べた後、今度は梅酒を飲むのを忘れたと思い、冷蔵庫から梅酒を取り出したのです。おそらく物忘れがひどく、梅酒を飲むのを忘れていたことを思い出した途端に今度はうなぎを食べたことを忘れたのです。それを見ていたいかず後家で祖母のめんどうを見ていた伯母が、「お母様、うなぎに梅酒はまずいでしょう 」とたしなめた瞬間に祖母は苦しみ出し血を吐いて病院にかつぎこまれましたが、そのまま亡くなりました。
祖母は若い頃、田舎町で芸者をやっていたのですが、当時実業家であった祖父に見初められました。そして周囲の反対を押し切って結婚したのです。
つまり私は芸者の孫という出生の秘密があるのです。


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帰ってきたヨッパライ [不思議な話]

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不思議なものを見ました。
昼過ぎに駅へ行く通りを歩いていると前から大声で歌いながら自転車に乗ったおじさんが来ました。
多分70歳過ぎだと思われますがすごく楽しそうに歌ってました。
「♫オラは死んじまっただ
オラは死んじまっただ〜♫ 」
50年近く前に流行った、帰ってきたヨッパライです。特に酔った風でもないのですが、とにかく大声です。道行く人たちは次々振り返ります。
オラは死んじまった、のフレーズだけではなく最初から最後までしかも3番までフルです。それが解ったのも遠くから聞こえて過ぎ去ってもしばらく聞こえたからです。繰り返し歌っていました。

歌いながら自転車漕いでる人はたくさんいますが、白昼、あれほどムキになって歌うのも違和感があります。
彼の心中はいったいどんなものだかとても興味があります。
それとも、僕の頭が暑さでどうかして幻視と幻聴だったのかもしれません。
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帰ってきたヨッパライ

おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ 天国に行っただ
長い階段を 雲の階段を
おらはのぼっただ ふらふらと
おらはよたよたと のぼりつづけただ
やっと天国の門についただ


天国よいとこ一度はおいで
酒はうまいしねえちゃんはきれいだ
ワー ワー ワッワー


おらが死んだのはよっぱらい運転で
「アレーッ!」
おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ 天国に行っただ
だけど天国にゃ こわい神様が
酒をとりあげて いつもどなるんだ


「なあおまえ 天国ちゅうとこは
そんなにあまいもんやおまへんにゃ
もっとまじめにやれ」


天国よいとこ一度はおいで
酒はうまいしねえちゃんはきれいだ
ワー ワー ワッワー


毎日酒を おらはのみつづけ
神様のことを おらは忘れただ


「なあおまえ まだそんなことばかり
やってんのでっか ほならでてゆけ」


そんな訳で おらはおいだされ
雲の階段を おりて行っただ
長い階段を おらはおりただ
ちょっとふみはずし


おらの目がさめた 畑のどまんなか
おらは生きかえっただ
おらは生きかえっただ
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みどりちゃんの話 [どうでもいい話]

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マクドナルドで、女子高生たちの会話を書き直した話を元に再構成しました。

クラスメイトのみどりちゃんは、とても太っていますが、可愛らしい太り方で笑顔が素敵な子でした。しかし、彼女には、癖というか変わった性質がありました。良くあることかも知れませんが、自分の好むものには何も惜しまないのです。

私の高校は、駅から学校まで、赤バス、青バス、黄バスという3台の通学バスがあります。私は自転車で通ってありましたたので利用しませんでしたが、みどりちゃんは毎日行き帰りとも青バスに乗っていました。生徒はどれに乗ってもいいのですが、みどりちゃんは青バスにしか乗りませんでした。
ところが、ある日学校でみどりちゃんがひとりさみしくうつむいて「 みんなはいいなぁ、青バスに乗れるんだもん 」とぽつんと言いました。
みどりちゃんは青バスのイケメンの運転手さんが大好きでバスに乗るたびに運転中でも話しかけたり終いには抱きついたりしていたので、運転手さんだけでなく、乗客の生徒たちも怖がり、安全上も問題になっていたそうです。それで我慢できなくなった青バスの運転手さんがリーダーの赤バスの運転手さんに泣きつき、赤バスの運転手さんがみどりちゃんに頼むから青バスに乗らないでくれと言ったそうです。そしてみどりちゃんはしばらくは大人しく他のバスに乗っていましたが一ヶ月もするとまた青バスに乗るようになりました。どうも運転手さんが変わったようです。みどりちゃんに運転手さん変わったの?と聞いたら、みどりちゃんが答えるに「あの運転手さん死んじゃった 」と泣きそうに言いました。
バスで通っている事情通が言うには、みどりちゃんは禁止されたあと青バスにこそ乗らなかったけれど、イケメンの運転手のうちを突き止めました。それで毎晩彼のアパートにケーキや料理を持って訪ねていたそうです。彼は部屋に入れませんでしたがある日彼の本当の恋人と鉢合わせになり、後はよくある成り行きで恋人は去り、彼は鉄道自殺したそうです。本当かどうかわかりませんが、みどりちゃんは彼の恋人に、自分と結婚する約束したと言ったそうです。
後任の青バスの運転手は前任者よりイケメン。またみどりちゃんは張り切って青バスで通学しているそうです。
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不思議な写真の話 [不思議な話]

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この写真は2008年5月に、島根県の出雲大社の本殿真裏の摂社、素戔嗚社で私が撮影したものである。

いくつか、オーブと思わしき丸い玉が写っている。今年の7月にFacebookの神社ファンのコミュニティーに投稿したところ大変な反響を呼びいろいろな意見が交わされた。
カメラのメカニズム、雨などの水滴、レンズのゴミ、フラッシュの効果など科学的なものから、心霊現象、神の現れ、精霊の可能性などが囁かれた。科学的なものは詳しい論文まで引っ張りだされた。

しかし、この写真を撮影した時の状況は、雨も降っておらず、フラッシュもない。レンズのゴミはついていなかった。
カメラはキヤノンのIXYというデジタルカメラだった。
この時の天気は薄曇りで午後2時ころであった。出雲大社本殿では数年後の遷宮のため内部を拝観できるようになっており、大勢の人の長蛇の列になっていた。

しかしである。このコミュニティーでコメントを頂いた方から写真の中の社殿脇の木の間にひとがいると投稿があった。
私は今まで気がつかなかった。写真を拡大して当該箇所を見てみると、確かに男が半被みたいな物を着てこちらを見ている。
普通ならなんてことないが、この辺りは禁足地になっていて入ることは禁じられている。
この話でコミュニティーは大騒ぎとなり、炎上したのだった。

社殿脇左脇を拡大して色調を判りやすく調整した。
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私は過去にも心霊写真とおぼしきものを数枚撮っているが最近ではこれ切りである。
もちろん、オーブはなんらかの事象が偶然いたのかも知れないし、人間が禁足地にいたのかも知れない。
ある霊能者の話では、ここに写るのは間違いなくオーブであり、男は生きた人では無いとのことだった。

【追記】
拡大した写真を良く見ると、男の右下に小さい白い着物の女性らしき人がいるように見える。
右手を左胸に置き男と同じようなかっこうをしている。



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池の跡 [心霊]

暑くなってきたのでちょっと怖い話でも、、。

50代の主婦Rさんの若い頃の話。

Rさんの娘がまだ2歳だから、25年くらい前のこと。
7月に法事で東京から山形のT市の実家に娘を連れて帰ったことがあった。
実家は果物を作っている農家で敷地には果樹園の他、納屋、作業場と広い庭があった。

帰省して彼女は庭の端にある小さい離れに泊まった。部屋は六畳と四畳半の二間で普段は客を泊めるのに使っていた。Rさんが物心ついた時からこの離れはあったが泊まるのは初めてだった。

その日は午後、離れで娘の添い寝をしていた。
娘を横にしてうとうとしてるとなにか足元を這い回る気配がした。飼ってる猫が忍び込んだだろうと、気にもせず目を開けないでいた。
しばらくすると、その這い回る気配は足元からタオルケットに入り込み、やがてふんわりしたものが足腰からお腹、胸まで這い上がって来た。Rさんは猫ではなく2歳になっても乳離しない娘がおっぱいを求めて来たのかと思い目を開けた。しかし、胸に乗っているはずの娘は横に寝ていた。
胸にはふわふわしたものが張り付いて蠢いている。Rさんは初めて恐怖を感じ声を出した。するとふわふわしたものは胸から頭まで這い上がって来た。タオルケットから出てきたのは幼い女の子の顔だった。そしてRさんの顔の鼻先でニッコリするとスーッと感触とともに消えてしまった。
Rさんはもう眠ることは出来なくなり、娘を起こし母屋に戻った。夢だったか、入眠時に起こる幻覚か考えたが、あまりにも感触がはっきりしていた。
夕飯時、そのことを家族に話した。
家族は黙って聞いていたが、やがてRさんの父親が今まで言わなかったがと断り、口を開いた。
あの離れの場所は元々は池だったが埋めて家を建てた。
50年以上も前、2歳の幼児がその池に落ち溺死したという。
その子は父親の妹でRさんの叔母にあたる。
事故の時、その子の母親つまりRさんのお婆さんはRさんと同い年だった。
そのあとに池を埋めて離れを建てたのだという。
Rさんは溺れ死んだ叔母の霊が彼女を母親が来たと思い出てきたのではないかと話していた。

※このシリーズは、筆者が体験したか、体験した本人からの話です。噂やまた聞きはありません。
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あたし鈴木保奈美に似てない? [どうでもいい話]

朝、テレビを観てたら女優の鈴木保奈美が出ていた。
そういえば数年前大河ドラマに10年ぶりで出演していたのを思い出した。今度は足尾銅山事件を描くドラマに出演するそうだ。
実は大河ドラマに復帰した際にある女友だちからある相談を持ちかけられた。
あまりにもバカバカしい相談だったので良く覚えていてそのメールを捜したら見つかった。読み返せば読み返すほどおかしいので、人生相談風にしてここに紹介する。もし本人がこれを読んで不快を感じたら遠慮なく言ってください(笑)
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私は40代前半の主婦です。

夫と中学生年子の女の子と男の子の4人暮らしです。

最近、屈辱的なことばかりでノイローゼ気味になりご相談したくメールいたしました。

年初NHK大河ドラマに久しぶりに女優の鈴木保奈美が出演していました。
すごく懐かしく思い全部見てしまいました。というのは私も若いころは鈴木保奈美そっくりだと言われていたのです。
私もまんざらではなく、彼女を陰で応援をしていました。
結婚する際も鈴木保奈美に似ている美人ということで夫も回りに自慢していたのです。私もずっとそのつもりで彼女が表に出なくなってからもたまに似ていると言われてきました。

ところが、大河ドラマに彼女が出演していても家族が何にも言わないのでいらいらして私が息子、娘に「ちょっと、この人誰かに似てない?」って訊いたらみんな「さあ、誰?」と全然気づかないのです。
子供たちは気づかないのは仕方がないと思い。大人気ないのでそれ以上突っ込みませんでした。

夫に夜「鈴木保奈美ってまだきれいよね。」と言ったら「誰だっけ?」というではありませんか。
結婚前はあれほど騒いでいたくせに、どこ吹く風です。

私は、情けなくなり夫や子供たちに尽くしてきた過去を思うと悔やんでも悔やみきれなく夜眠れなくなってしまいました。

おまけに、隣の奥さん(同い年くらい)に「大河ドラマで鈴木保奈美が復帰したね。私はこれでも若いころ似ているって言われたのよ。」と言ったら
「似てないわよぅ」と一蹴されてしまいました。私は二の句が告げませんでした。

それ以来、何もやる気がおきず家事もいい加減になり、料理などはほとんどがレトルトパックもの。家族は人の気も知らないで「最近、おかしい」と言っています。

一体誰がそうした?と包丁で家族みな殺しにして、隣の家には火をつけ私も死のう、なんてことを思うようになりました。しかしまさかそんなことも出来ず悶々と毎日を過ごしています。
一体私はどうしたらいいのでしょう?
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この人、その後どうしたかな?
僕の返答はどう書いたか忘れてしまった。メールも見つからない。
鈴木保奈美で悩む以前から精神を病んでいたのでは?


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